it has been almost two years since the great earthquake, but the recovery in this area still remain silent, nothing is really go on for recovery.  This photo was major commercial building for fishing industry, whitch the main business in this area. …  all the junks were removed, but no place to go yet…  why it has been so delay?

東北 Tofoku, Kamaishi

 

it has been almost two years since the great earthquake, but the recovery in this area still remain silent, nothing is really go on for recovery.  This photo was major commercial building for fishing industry, whitch the main business in this area. …  all the junks were removed, but no place to go yet…  why it has been so delay?  あれから2年目を迎えた東北の被災地は、荒れた土地にまだ津波の爪あとが色濃く残っていた。「ここには町があった」「ここに皆が暮らしていた」といわれてもピンと来ない。それほど、町がごっそりもぎ取られたように跡形もない。しかし命がそこにまた芽生え始めていた。 桜の花が荒地に咲いていた。ここにも春が訪れた。“復興元年”。決してあの日の事を忘れない、でも失ったものを置いてかなくてはならない。少しずつ前に進んでいく。今、ほんの少しだけど薄いピンクの色をつけた。一度この町で花を咲かせるために――生きていく――生きていかなきゃ。生きる力ってすごい。長い長い冬を超え、暗く辛い日々を超え、命がまたここで芽生えているから。2度目の春が来て、ここで芽生えているから。頑張ろう、東北。

2012年春 取材記録から

遅い春―-かすかに復興の兆し

 

自然が生み出した災害は又自然に帰る。あらゆる傷も癒る日が来るのだろうか? でもどんな不幸な出来事があっても、季節はいつもと同じように巡り来る。どんよりとした曇り空に海は、あの時の活気はまたよみがえるのだろうか? あの黒い悪魔のような水は、すでに遠い過去のように、澄み切った海は穏やかさを取り戻していた。そして逸早く戻ってきた三陸の魚達。鳥も戻ってきた。―-でも、まだ大地は元には戻らない。津波の後、80cmから1mの地盤沈下現象が起こっている。残った岬の灯台がとても低く見えた。

 

宮城県 気仙沼市

陸前高田から気仙沼に下る車窓から、沢山の養殖棚が海に浮かんでいる光景が飛び込んできた。「あれはなんでしょうか」? 「ホタテの養殖ですね。沢山の養殖棚が見えますね」。夕日に照らされオレンジ色に見える、その棚が海から浮き出て輝いた。10棚、20棚、いや30棚くらいあるかもしれない。「ホタテが育っているのですね。収穫は未だですね」。「来年の3月くらいでしょうか、育っていますね」。その横には災害で陸に乗り上げたり流されたりして滅茶苦茶に壊れた漁船が積み上げられていた。でも養殖棚は全部他県から来た、また寄付やボランティア達が贈与した新顔だけど、震災前に養殖が盛んだったこの土地の復興の要となる。プカプカの浮かぶ気棚に希望の光がさす。春の海を一層輝かせた。

 

気仙沼は夥しい犠牲者を出した漁業の町。震災前は三陸で一番の水揚げを誇っていた。今は津波に流されボロボロになった漁船が至るところに積み上げられていた。それでも魚達が気仙沼に戻っていて、気仙沼では魚の去年7月から水揚をげされている。

 

データ:

震災の水産業被害、総額8952億円 水産白書
2011年5月27日12時17分
参考資料: http://www.asahi.com/special/10005/TKY201105270220.html?ref=recc

農林水産省は27日、東日本大震災の津波による水産業の被害額(16日現在)が、8952億円にのぼったとする2010年度の水産白書を発表した。岩手、宮城、福島3県を中心に、319漁港で約6400億円の被害が出るなどした。

漁船は、津波で2万隻余りが陸に乗り上げたり海に流されたりして、約1300億円の被害。水産加工施設も、宮城県で400を超える工場のうち半数以上が全半壊するなど、生産基盤の多くが失われた。漁港被害は、復旧・修復すると仮定し、それにかかる金額をはじいた。

青森県から千葉県にかけての太平洋側の漁業・養殖業は、全国の生産量の24%(127万トン)を占めており、農水省は早期の復興が重要だと指摘している。

また、白書によると09年の国内漁業・養殖業の生産額は、魚価が安値で推移したことなどから、前年比9.5%減の1兆4730億円と落ち込んだ。漁業就業者数は4.6%減の21万2千人で、減少に歯止めはかかっていない。

09年度の魚介類の自給率は62%で、3年連続の横ばいだった。国民1人あたりの魚の摂取量は06年に初めて肉を下回り、その後も減り続けており、白書は若い世代の魚離れに懸念も示した。

 

復興のシンボル―― 奇跡の一本松

岩手県 陸前高田市

奇跡の一本松がそこに聳え立っていた。でも昔の松林はもう戻ってこない。夏は砂浜で遊んでいた子ども達もここにはもう戻らない。そして一本杉は寂しそうに終りの時を迎える。かつて見下ろしていた一本だけ高い杉、その緑色はもう戻ってこない。だけど、人々は祈り続ける。人々の生活と共に会ったこの杉を“奇跡の一本松”と呼び、復興のシンボルに掲げられたのに。でも、きっと人はこの杉の木を許してくれる。皆といっしょにこの一年間戦ってきたのだから。

 

 

奇跡の一本松はまだそこに立っていた。あらゆる研究者がこの木を蘇生させる考案をしている。それほど、勇気付けられた一本の木。海岸にあった7万本あった松の全てが流されても生き残った松だから思い入れが深い。クローンを採取して同じ松を植えるという案も浮かび上がっている。植物もその町で長年暮らしてきた生き物だのだ。

 

人気が少ない被災地にこの周りには他県ナンバーの車が目立つ。 「あれ」?そこに、ミ二スカート、ハイヒール姿の女の子を発見。渋谷を歩いていそうな女の子と男の子がこの松の前で記念写真を撮っていた。どうやらデートコースのようだ。まわりは工事関係者、作業服のボランティア達しかなかった光景から、観光客がカメラを持って被災地見学に来ている。これも“復興”の象徴だと、地元の人は他県からの“人”に歓迎姿勢。「復興を見に」東北の酒を飲み東北の食を食べる、それがこの春に見た“ボランティア観光”。被災地は沼地や瓦礫だけではない、南から、北から被災地にも観光客が訪れる。そう-―人が居なければ町は復興しない。人を受け入れなければ、食べ物も土地も生きかえらない。

 

 

復興を応援する人達は必ずしもいい人達ばかりでない

日本中が東北に想いをよせているとは限らない。中には全く無関心の人もいれば、首都圏からドサクサにまぎれ盗難に来たならずものだっている。災害復興をPRにして商売をする人もでてくる。しかしこの復興にミリオンのお金が動くのは言わずとしれた、工事費用だ。たとえば、かさ上げ、堤防、水門、線路、道路、キリがないほどインフラにお金がかかる。その工事をどの工事会社、あるいは下請業者が請け負うかという事になる。そして工事費用はどこから捻出するかという事に問題がぶつかる。国のインフラも今、老朽化で相当な国の資産を当て込まれているのに、被災地になると範囲が広すぎて自治体や市では当然まかない切れない。しかしこの復興計画が成立しないかぎり、町の復興はあり得ないのだから、ジレンマが続く。成立して、2,3年と考えた場合、2,3ヶ月の決定の遅れは更にもう1年の復興の遅れになる恐れもある。この町を復興させるのに、いったいどのくらいの工事費用がかかるのだろうと考えると、恐ろしくなるくらいだ。見渡す限り荒れた土地にまた町を復元しようとしているのだから。

復興はジャックポット!?

この震災は1日本の危機だと考えるべきなのだろうが、復興はジャックポットにもなりうる。この復興工事を請け負った会社はジャックポット、そしてこれから大きな事を考えている企業経営者にもジャックポットを引くチャンスが待ち構えている。―-そういった考え方もある。

 

 

しかしすごいのは被災者達がとった行動だ。海外から見れば、ようくもまあ、ダメな政治にも文句も言わず暴動をも起こさない、寒さの中、文句も言わず凍えながらきちんと列を作り、配膳を待つ、そんな国民は世界のどこにもいないと絶賛された。

 

新しい街づくりにも問題が山済み

しかし問題は山済み。住人などの意見もあり、実際はまだ町の復興計画がなされてない。計画としては、壊れた堤防を今回の津波にも耐えられる巨大な堤防に修復し、地盤沈下のため下がった土地をかさ上げするという提案が上げられたものの、まず、巨大堤防にすると、①海が見えない、②堀の中で暮らしているような感覚になる、③もし津波が来た時に海の状態が全く分からない、などの住民の反対意見が多い。実は今回も堤防の近くをドライブしていた人達は全く津波に気が付かなかった人も多い。それに防災無線も停電と共にすぐ切れてしまい、全く情報が断ち切られてしまった。もう一つの提案の「かさ上げ」にも問題が発生。今回の被害の大きさから、町全体がまっ平になったところ、まだ半壊した丈夫な家がポツリポツリ残っている所がある。資金のある人達は、この半壊した自宅を修理して住んで居る。そのため、かさ上をするには、この家を撤去するか、どこかに移ってもらわなければならなくなる。住んで居る人達にとっては、なけなしのお金を使って修繕をした家を退去したくは無いだろう。まだ様々な意見が飛び交い、復興は難航中。それに瓦礫処理問題も解決していない。塩水を含んだ土地は痩せ、木や作物は枯れ、作物ももう育たない。人口も減って、もうここに戻ってこない人達も多い。ただ、元に戻っているのは海だけ。海はあの“黒い水”のイメージを覆すかのように綺麗に澄んでいる。そして三陸の魚達もこの海に戻ってきている。海と空、この災害を教訓にどんな町造りが展開されるのかが、これからの課題である。町復興には、少なくともこれからあと5年、長くて10年と見ている。

 

 

岩手県、釜石市

大きな漁港の町。水産加工業者が多くこの町で産業をしていた。5,6メートルほどのコンクリートの堤防も見るも無残にバラバラに崩れ、ドミノ倒しのような状態になっていた。ここで被害が多かったのは、つい震災の2日前、津波シュミレーションのように、チリの地震からの「大津波警報」が発令されたという。結局は、たった40cm海岸に着いただけ。昔、「イワンのバカ」という童話を親に読んでもらった事があるのを思い出した。「大変だ!大変だ」!といい続けて何も起こらなければ、本当に大変な時に誰も信用しなくなる。そんな現象がここで惨事を招いた。疑問なのは、「大津波」の定義だ。40cmの波を「大津波」といわれたら、誰も恐怖感を抱かなくなる。それもたった2日前の出来事。この日も大きな地震を凌いで、住民達がその揺れに耐え、ほっとしたところ、津波の警報は最初1m。その後は電気が切れて、防災無線も聞いて無い人も多い。到達時刻になっても来ないと安堵感が広がる。でも「今度もまたこないのでは」という気の緩みが生死を分けてしまった。

しかし今回は本物の大津波だった。それも歴史上、途轍もない大きさだ。ほとんどの犠牲者は逃げ遅れ。堤防が高くて波に気づかなかった人も居たらしい。その後の停電、防災無線も切れてしまっている。

そして、高台にある、避難所として指定されていた地域へ津波が到達した。その奇跡の人に会う事ができた。

 

 

ここまで人間は純粋に美しくなれるものなのだろうか!?

ここの「宝来館」に本日案内人の草野氏が立ち寄りたいという事で、私はトイレ休憩をさせてもらった。ここで何が起こったのかも何も知らなかった。ただ、この先、向かいにあった旅館らしきコンクリートの大きな建物が、全壊して斜めに倒れていた姿が痛々しかった。「ここの人達は助からなかったのでしょうか」?という私の質問に、「ほとんどそう思ったほうが正しいね」と寂しい回答。そこからほんの数分歩いたくらいの場所の「宝来館」は真新しいピカピカの玄関を持ち、“暖かさ”が溢れていた。震災の事は何も聞かず、お手洗いだけをお借りした。そこに「いきる よろこび」と書いた色紙が飾ってあった。その一言がズンと心に響いた。アメリカから被災地に取材に出かける前、私は小さな事で夜も寝れないくらい悩み続けていたのを思い出した。「皆が思うほどアメリカンドリームなんてありえない」なんて、少し自分を非難していた日々が続いていた事を。「いきる よろこび」その言葉は、死を体験した人にしか言えない言葉ではないだろうか? いき続けていれば、生きることは当たり前。素晴らしいなんて思えるなんて無かった。草野さんは、「女将さん」と呼ばれる人としゃべっていた。その人の顔を見た瞬間、「美しい」と思った。「生きる力が溢れている、幸福とは何かを知っている」、まるでお釈迦様を見たような(私は宗教ではないのだが)気持ちになった。目が合ってしまったので、草野紙が私を紹介した。そして女将を「この人は有名な人なんだよ。津波に揉まれても生き残ったのだから」。すると女将は、「そうそう、一回沈んじゃって、もうダメかなと思ったんだけど、『生きたい、生きたい、絶対に死にたくない』と心から思った瞬間、体を浮き上がって、何かしっかりしたものを掴む事ができたのよ」と続けてくれた。このアメリカから来た何もここの惨事を知らない私にさえ、優しく笑顔で話しかけてくれる、女将さん。思わず手を握った。なんて暖かい、でもしっかりした、優しい手だろう。「この旅館、再オープンしたんですね」!「三階まで水が着ててもう再開の見通しは少ないと思っていたのだけどね...本当に皆さんのおかげです。色んな人に助けられて...」と話を続けた。後に聞くとこの女将さん、大変な思いをして、地域の人を支えてきた。震災後、自衛隊の救助が来る何日間か、真っ暗の中で38人と寒さと飢えを凌いだという。ここにあった泥まみれの米を風呂の湯で洗い、炊いて食べた。そしてその後避難所として使用されたが、水道もガスも使えないので、何十人もの住人が盛岡の避難所に移った。その時、大漁の旗を振って見送った女将さん。 去年の12月、この旅館が再開する事になり、また大勢の“女将さんファン”、宝来屋のファン達がここに戻ってきた。釜石で取れた新鮮なお魚にまたここで新しい命が吹き込まれる。

 

釜石市はまだまだ復興にはほど遠いが、この女将さんの笑顔がある限り、皆ここに戻ってくる。そして何よりも自然の産物を愛した女将さんは、犠牲者をと貰って花を沢山植えた。記念碑も立てた、この場所は復興のグランドゼロになる。あまりにも町の被害は多きいが、一人一人の思いがここで繋がる。その思いがきっと犠牲者の人達に届いている。生還者ってすごい。生きるよろこびを噛締めて女将さんの笑顔がこの小さな町を復興に導く。がんばれ、釜石の皆さん!

参考資料:岩手県釜石市鵜住居町、旅館宝来館 http://houraikan.jp/

 

絆って、ふれあいってきっとこういう事なのだろう

初めて津波記念碑がこの高台に建てられた。

宝来旅館の岩崎昭子(女将さん)の言葉 “みんなでやっぺし、生きっぺし“

これほど、コミュニティーに貢献してきた女将さんの言葉らしい。

 

 

鵜住居地区の津波記念碑(岩手県釜石市)

 

岩手県 山田町

「私は山田の人間だから」―― 一杯のうどんのおいしさが胸にしみる

「これが山田駅だよ」と草野さんが言った。「え?ここって駅だったんですか」「そう、ここに駅舎があってね。。。」三陸鉄道を勝手に応援する会の会長でもある草野氏にとって、三陸鉄道には深い思い入れがある。見る限り、あるのはプラットホームだったのだろうと思える段差くらいで、線路もなにも剥ぎ取られているようにない。ただ、錆付いて曲がりくねった「山田駅」と書かれていただろう鉄の枠が痛々しかった。その駅(だった)からすぐの所に仮設店舗があった。

建物の基礎だけが残った            跡形も無くなった三陸鉄道、山田駅

人口18、625のうち757人が犠牲になった村。周りは何もない、まだぐちゃぐちゃになった車がそのまま積み重なり、津波の面影を残す。町は無くなってしまった。いっしょに暮らしていた住人も誰も居ない。その町の真ん中にポツンと仮説店舗が立っていた。「3月29日オープン!!」 の看板。新規オープンしたのは草野さんの知り合いだ。中へ入ると、お祝いの花が並べられ、「いらっしゃいませ」!草野氏の顔を見て嬉しそうに出てきたのは、店主の川上氏。彼は災害の前、この町にお店を経営していた。津波で全て流されたが、非難をし、命は助かった。と明るく迎えてくれたオーナー。 普通新店舗オープンなんてごく普通であるはずなのに、周りの殺風景な景色とマッチしない。「山田」の復興を願ってオープンした。「私は“山田”の人間ですから、山田に残ります。ここが今の私の町です」と川上さん。自慢の「釜揚げうどん」を頂いた。今まで食べたどのうどんより美味しかった。この腕を持つオーナーシェフが被災地で細々と商売を始めた。お客さんはほとんど工事関係者の人達なのだろうか? 丘の上を見るとまだ建物が数件残っている。何かが動き始めている。そう、商売を始めた川上さんが、この職人が作る美味しいうどんを食べる人がいれば、その場は栄えるに違いない。がんばれ、山田。がんばれ川上さん、山田町の復興を目指して。

 

 

仕事をするって、「生きる」事。人生そのものなんだ

仕事を始める人もいれば、仕事を諦めている人も沢山ある。「もう生きているだけでいい」と言う人も。でもそんな人達でも長い仮設店舗の生活も強いられれば、少しづつ生きがいが無くなっていくのも事実。家族を守る、子供を育てる、仕事が好きだ、そんな「自分にやるべき事があるから」人って生きているのではないだろうか? 生きる目的がなければ生きててもなんだか心が空っぽになってしまう。充実感や達成感や、報酬をもらうとか、「仕事」が持つ意味はその人の人生そのものだんだ。しかも東北に人達は、職人的仕事が多い。農家の人も漁業の人もずっとその町でその仕事と関わってきた。人生全てがそこにあった。

 

 

それでも生きていく、立ち上がる

山田町出身の駒場利行さんが、3月にイタリアンレストランを盛岡の中心地にオープンした。震災から1年、新しいスタートだ。駒場さんは最愛の奥さん、ご両親、兄の家族4人を震災で亡くした。今は子供さんといっしょに盛岡に住んでいる。山田町の復興を切に願う山田さんは、何よりも山田町沿岸で摂れる魚と食材を全国の人に知ってほしい、食べてほしいという。そしてその町を愛した亡くなった奥さんの故郷、山田町に帰る日を夢見ている。

 

 

ROCARE ASCIA (ロカーレアーシャ)

岩手県盛岡市内丸4-14

TEL/FAX 019-601-6323

営業時間11~15時 / 17~21時

 

手打ちうどんのクッキング教室を開くボランティア団体

岩手県 陸前高田市

このイベントには、ボランティア団体として、「ソウルオブ東北」「NICCO」、スポンサーの「キッコーマン」が参加。

初めて被災者に触れる日になった。陸前高田市では、約2300人の人口の内約1800人が犠牲(行方不明者含)となった。方々に仮設住宅が建ち、被災者が住んでいる。そのなかの比較的小さな仮設住宅の横にある公民館でイベントは行われた。まず、この仮設に住んでいる“お世話係”の主婦の方達に出迎えられる。どんな様相で、どんな接し方をすれば良いか悩んでいた私の不安は一気に飛び去った。この方達はとても明るくて、とても親切に私達に接してくれた。近所で取れる自慢のワカメを自慢した。その大きくでツヤツヤでプリプリした茶色の昆布をサッと日に通せばたちまちつややかな緑のワカメに変わる。その捌き方も慣れた手つきで幹の部分と葉の部分を分けてささっと器に盛りつける。プロの主婦の早業。

 

 

CA::準備をするボランティアグループ達

 

12時、いよいよこのイベントに来た仮設の住民達が公民館に入ってきた。ほとんどは恒例の人が多い。それでも後から子供が5人、親と参加した。仮設住民の方達からは、「よそもの」の目で見られていたような気がした。それもそのはず、皆この町でずっと暮らしていた人達が、突然、東京から、地方から、そしてアメリカから分けの分からないライター等が「ドランティア団体」として参加しているわけだから。何か心の奥に閉まってて、私達には決して開かない「硬い」何かがこの海上の空気を二分していた。キッチンをずっと手伝ってくれていたお母さん方とは何の隔たりもなかったけれど、子供を含む住人の方達とは、ほとんど会話を交わせないままだった。彼らにとってみれば、何のボランティアなんて知ったこっちゃない。ここにはすでに何団体ものボランティアが来ているのだし、こんなイベントには慣れている様子だった。それでも、うどんが湯がきあがったときには、嬉しそうな家族の顔を見る事ができた。私はできるだけ中に入って参加したかったので、女の子にしゃべりかけてみた。「愛」ちゃんというこの女の子は、とてもおしゃべりだけど、やはり、“今までと違う環境”を意識しながら暮らしていた。子供の目にはどんな風にこの災害の風景が映ったのだろう?岩手交通が毎日子供達を仮設住宅から学校に送っている。少なくとも誰もが心に傷を負っているのは明らかだった。

 

イベントが終わると、皆貰うものを貰うと、主催者にお礼なども言わず仮設に戻った。

 

この「仮設」というのが、実はややこしい問題を抱えていて、住んでいる人達の心境も変えているのも垣間見たような気がする。「同情をされたくない」「恵んでほしくない」というプライドもある一方、住宅は流され、行き場の無い人がほとんど。あまり他人に介入してほしくないが、人の助けをなしに今は生きていけない。そこに手を延ばす人が居ても、心は開かない、開けない、被災者に対する色目や同情などもらいたくないから。そこで、「仕事」をするという意味はとても思い。何をして生きていくのか?与えられたものだけで食べていければそれで良いというものでもない。実はボランティアをしたのは私自身初めてで、心に触れる、楽しい時を被災者の人達といっしょに過ごそうと出かけたものの、やはり、よそものの壁を感じたのは私だけではないはず。生きていく目的意識が無ければ、人間は変わってしまうのだろう。一刻も早く、「自分の生きる場所、仕事」を見つけて欲しいと願うしかできない、自分もまたもどかしく感じた。

 

 

一方今回のイベントに参加したグループは東京から6時の新幹線で約2時間半、一関まで行き、そこから1時間半マイクロバスで現地に到着し、イベントを行った。手持ちの食材、鍋、ガスコンロなどを運び、2時間のワークショップはあっという間に終わった。材料も一晩ねかせた生地と交換するなど、三分クッキングのように、手際よく進めていく。手打ちのうどんが茹で上がったとき、参加者の顔が明るくなった。イベントが終わった2時半時点でもだれもまだお昼御飯さえ食べてなかった。皆、それぞれの持ち場を要領よくスピーディーに後片付け、車に運び込み、ほとんど休みなく働いた。そのうどんを頂いたのは私を含むラッキーな三人だけ。もちもちしたした手打ちはコシがあり、本当に美味しく頂きました。今回のメニューのスープなしの湯であげスタイルも最高でした。

イベントを終えると私、フリーライターを含むボランティア一行は陸前高田、気仙沼を視察して、夕方6時に一関駅に戻った。ボランティアと言えども、ハードワークに脱帽。そこから皆さんの自宅がある東京方面まで約2時間。多分自宅に帰れたのは10時過ぎだろう。本当に皆さんお疲れ様です。

 

今回の提供者の「はなまるうどん」さんは、被災者達に貢献する事が企業としてもやるべき事であると、時間を惜しまずにすべてこの日のイベントに向けて準備してきた。被災者達に優しく指導し、帰りにはお土産まで持たせて帰らせた。こんな良心的な沢山の企業が被災地を訪れている。

今回参加した、ボランティアの皆さん

ソウルオブ東北 (一般財団法人 日本のこころの緊急プロジェクト)

nicco (公益社団法人 日本国際民間協力会)

Kikkoman

 

被災者の証言① 陸前高田

今回、「おむすびの会」で利用をさせて頂いた公民館にはお手伝いのお母さん達が私達の到着を待ち受けていました。この女性達は、避難所や仮設でもいつも御飯を作ったりして皆のお母さん役を引き受けていました。

写真は、お母さん方が朝取ったワカメを湯がいて切ってくれたもの。コリコリと食感があって、すごく美味しい。こんな海の幸に恵まれている陸前高田の養殖は少しづつだが戻って来ているらしい。ワカメ生産は全国でも一位だった。

 

復興食堂 大槌町

 

大槌町にある復興カフェは沢山の観光客?で賑っていた。バスから降りてくる団体客は復興ボランティアツアーのご一行!そんなツアーがあったんだ! 今や災害は観光なの?--それでも地元の人は喜んで居るとか。だって消費者がいなければお魚は腐るばかりか、仕事もなくなってしまう。この際被災者は見世物になっても「生きる」糧をさがしているのだろうか。--でもやっぱり人がいるという事がなんと人を明るくしてくれるのだろう。さっきまでシラーとしていた寂しい雰囲気だった私も心が温かくなった。人と食ーーーこれが消えたら町は全滅だ

 

 

 

おらが大槌復興食堂には沢山のお客さんで賑っていた。近海で取れたお魚がそのまま食べられるリーズナブルな食堂だ。海に面したところにその食堂はある。被災者のよりどころとしてこのカフェは義援金で賄われている。私はまよわずに「いくら丼」!!

 

 

被災地被害データ:

岩手県 大槌町(おおつちちょう) 1600人の死者、行方不明者

石巻市 人口16万人の内、3,735人が犠牲(行方不明者含)

気仙沼市 人口約73500人の内、1,356人犠牲(行方不明者含)となった。

大槌町 約15300の人口のうち1,282人(行方不明者含)が犠牲となった。

山田町人口18625のうち757人が犠牲になった。

参考資料:

宮城県災害対策本部資料 (3/11) ・ 総務省統計局ホームページ

 

石巻市―宮城県

石巻市は、人口152,301 人の町、宮城県には仙台に次ぐ都市で、ここ町での犠牲者、損失は、三県のうちでも最悪だった。大地には花がない、木がない、見渡す限り、土砂に埋まった、瓦礫が取り去られた、建物の土台だけを残し、人も居なくなってしまった。そんな町に花を咲かそうと、石巻のボランティアグループが「復興の種」を飢た。少しずつ育つ復興の花、この春、実を付けた始めた。早くもっと花が咲いてこの土地に訪れる人が増えますように。

スマイル東北:http://smile-tohoku.jp/

花と緑のちからで3.11プロジェクトみやぎ委員会、石巻を花と緑の力で明るくする運動実行委員会等の協力により、花植えが完了(3-18-2012) http://smile-tohoku.jp/wp/miyagi/?cat=5

 

 

 

レポート パート2

 

東北の食品生産者達

Save the best things in Japan.

 

Japanese people, unbelievably industrially, consistently make a one thing for the best almost whole their lifetime. have you ever seen such race in the world? As I have lived in theU.S.for 16years now., everything move quickly, such as the job, the place to live, and the partners. Japanese people unlikely, consistently, stay in one place, one family, and one job, keep improving one thing for a long time. as most Americans already know that many cooks and pastry chefs stay in the same restaurant until they become masters. Save the great Japanese food producers, save our sea production, save the people for us and for the world.

 

「モノ作りニッポン」の価値

日本人ほど機用で“職人”と呼ばれる人間が多い国は世界中どこにも居ないと私は信じている。この国の人達が作るものは機械から野菜まで最高のモノの作りを世界に供給している。日本には資源が無いが、この生産者達は日本の国宝とも呼べる“財産”ではないだろうか。今回災害があった約300キロに及ぶ三陸海岸は、漁港の集落が連なり、日本でも寒流と暖流が交差する絶好のロケーションでは、釜石特産のかきとワカメ、ホタテの養殖が再開している。漁師は目を輝かせている。働くって「生きる」ことなんだ。

 

岩手県の地酒 (次回へ続く)