第1章:ハンガリーからウィーンへ   第2章:音楽の都、ウィーン  第3章:アマデウス モーツアルト  第4章:ザッハホテル~ザッハトルテ  第5章:美しい王妃達の悲劇~シェンブルン宮殿

 

ウィーンの休日

文・写真:Elli Sekine(1部除く)

ハンガリーからウィーンへ

 

ブタペストから車で西に約2時間走るとオーストリア国境に着く。

ヨーロッパの国はイギリス意外はほとんど何カ国との国境があり、ハンガリーも6カ国の国境を持つ国なので、隣の国に行くのに「国」というイメージがまるでない。週末をウィーンで過ごすのを東京から軽井沢という感覚で捉えていた私は家を出てしばらくしてパスポートを携帯していないことに気が付いた。

「そうだ、ウィーンは近いけど、オーストリアなんだ」と再認識したほどだった。

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写真:Elli

国境では、検問のようなものもなくほとんどだれでもスムーズにオーストリアに入れる。メキシコと米国とのボーダーを考えると大違いだ。ほとんどノーチェックだし待ち時間もほとんどなかった。ボーダーを越えても、周りの景色はなんら代わり映えしないし、国が変わった気もまったくないのに、目の前に飛び込んでくるビルボードは皆ドイツ語に変わっていた。ユーロ通貨をまだ持たないハンガリーからユーロに変わった途端、物価も2倍くらい上がった。

そしてウィーンに着くとはっきり「国」の違いを感じる。この都会的な雰囲気はハンガリーにはなかったし、町もきれいに整備されている。観光客は約10倍くらい多い。町に活気があるのも観光客が多いのもやはりウィーンという国の魅力かもしれないが、後から知った事だが、今年は特別モーツアルトの250歳記念ということで、観光業になお更徹しているらしい。死んだ人間に年をつけるのもなんだとおもうが、結局観光は大ビジネスなのだから、お金が入れば良しなんだろう。そのため、新しいモーツアルトミュジアムも慌てて作られた。

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私の第一印象は(実は15年前にも訪れた事があるが、移動に忙しすぎてほとんど何をしたか憶えていない)何十年も共産国を強いられたハンガリーとウェスタンヨーロッパ諸国は国民性は町の機能性も全く違う。

ウィーンの建築物は宗教色が濃いなかでもどこか洗練されたデザインの建物が多く、街もゴチャゴチャしていない。

 

教会の周りには何万人も集まれるくらいの広場になっているし、馬車が石畳を走るのがとてもサマになる街。

食べ物はさすがに一時は同国だっただけに共有している部分が多いが、そのフードのクオリティーはサービス共に圧倒的にウィーンは洗練された町である。女性のファッションも垢抜けているし、ショップで売っているものも高価なものが多い。その国の雰囲気は「経済力」を現すものでもあるのか、軒並ぶ高価な店は経済力を反映している。

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写真:Elli

  

音楽の都ウィーン

だれもがあこがれる音楽の都、ウィーン。その象徴的な存在でもあるモーツアルトの250歳を記念する年にあたる今年は、モーツアルトが生まれたザルツブルグ、ウィーン、プラハなどで大々的なイベントを開催している。毎日のようにモーツアルトのコンサートが町の各地で行われ、そのチケットを売りにモーツアルトに扮したアルバイト学生がコミッションの為、必死でチケットを売っている。

ウィーンは有名な音楽家が育った町だけでなく、またその音楽のイメージと町とがとてもマッチしていて、不思議と町を歩くだけでモーツアルトを口ずさんでる。彼の足跡をたどると、自分はどれだけ彼の事を、彼の音楽を知っているだろうという気になった。有名な音楽を聴くのは簡単だけど、それをどれくらい理解しているかというと全くの無知であった。早速彼の出生や音楽のバックグランドを旅してみることにした。

写真:Elli

アマデウス.モーツアルト

モーツアルトは、1756年1月27日、父レオポルドと母アンナの間にザルツブルグで生まれる。

彼は天才少年「Prodigy」(神童)と呼ばれたが、 家庭は、裕福でなかったし、音楽環境としては、当時宮廷音楽家だった父の存在以外,恵まれたものは無かった。彼を音楽家として世に知らしめるためには、旅をすること以外にはなかった。レオポルドはまだ幼いアマデウスを連れ、ヨーロッパの町から町を旅してまわった、その旅の資金繰りも大変だったようだ。

今やオーストリアのシンボル的存在にあるモーツアルトは、その名をヨーロッパ中に知られるようになったのは、成人してから。 世界中に知られるようになったのは皮肉にも彼が他界してから。 その名声はまるで大きな打ち上げ花火のように打ち上げては消え、打ち上げては消えるといった、早く、もろく、一瞬の輝きと共も散っていった。彼が生きている間、幸せだった時期はほんの一瞬。 晩年、助けを求める彼にだれも手を差し伸べてはくれなかった。35歳の若さで生涯を終えた彼の人生は 今の栄光とは想像がつかないほど、波乱万丈に満ちた人生だった。

それにしても彼の若すぎる死は、至って孤独で貧乏だった。 彼は寂しく一人で死んでいった。喝采を浴びていたウィーンでの公演とは裏腹に、私生活は借金だらけだった。葬られる時も最低の身分の棺桶にいれられ、手荒く扱われた結果、彼の顔のマスク(顔の形をかたどったもの)も途中で割れてしまったらしい。今、アマデウスの肖像画はあっても、彼の顔を完璧に知る手立てはない。当時、彼の墓地にはほとんど誰も訪れることもなかったという。その遺骨さえ未だにどこにあるのか不明のままだ。貧困と栄光を繰り返した彼の激しい人生の中で、作曲された美しいメロディーは奇跡としがいいようがないほど、彼の人並みならぬ才能を物語っている。 

時遅く、アマデウスの死後人々は、彼を音楽家としての栄光の賞賛をし始めた。

天才の人生とはこんなものなのか。かつて彼が6歳の時にシエーンブルン宮殿で演奏をし、それを女帝マリア.テレジアや当時7歳だったマリー.アントワネットに絶賛された。その時、6歳だったアマデウスがマリーにプロポーズしたというエピソードものこっている。しかし激動の時代を背景に彼に注ぐ小さな光は時とともに色あせていく。

パリで成功を収めたいという父の願いもむなしく、その時フランス国王后だったアリー.アントワネットのコネも得られなかったアマデウスは旅の途中で母も亡くし、むなしく退散した。

写真:Elli

彼の性格は、今の時代でいえば日本の従業員よりフリーランスタイプ(会社に所属せず、自分の専門分野でクライアントを探すワーキングスタイル)で、

良い話がきても、厳しいルールや条件には従えず、けってしまう。頑固な一面や彼の正直さが「縛られない」人生を選んだのかもしれない。

モーツアルトはろくに教育を受けていなかったし、大人になっても音楽しか知らなかった。5歳の時から作曲を始め、死ぬまでに700曲あまりの楽曲を作曲したが、彼の元にお金が残ることはなく、遊びや酒で使い果たしていた。彼の計画性のなさをカバーしていたのは父親のレオポルドだが、彼の悲願であったパリでの成功には及ばなかったものの、ウィーンでの演奏会の花々しい光景を見とどけて他界した。

アマデウスはまるで子供のような大人だった。子供のまま成長してしまった彼を、大人達は厳しく評価した。彼はほとんど友達も作れず大人の世界しか知らずに育った、いわゆる世間知らず。天涯孤独で波乱万丈、でもあふれる彼の感情と愛は曲となって生き続けていった。彼はどんな状況に追いやられても書き続けた。その若い生涯を閉じる最後の日まで。

彼の音楽は彼自身というよりも彼が描いたファンタジーではないかと私は思う。

アマデウスは旅の途中で初恋の人(結婚した妻の姉)に出会い、激しい恋して以来、新しい人生を発見した。もう父の傘の下ではない、自分自身の独立した世界を歩き始める。この頃から彼はすばらしい楽曲の数々を生み出している。

しかしこの結婚生活は決して安定したものではなかった。大きな子供同士がいっしょになったというような結婚で、経済観念がまるでないアマデウスと自分勝手(といわれた)な

妻のコンスタンツェの間にはいつも喧嘩が絶えなかったらしい。二人には6人もの子供が誕生したが、6人のうち4人は生後2年以内に死んでいる。残った男の子二人は成人し、53歳と79歳まで生きたが、この二人とも子孫を残さずこの世を去った為、実際アマデウス.モーツアルトの子孫は残念ながら断絶していまった。

 

Mozartが結婚式を挙げた教会/ 写真:Elli

彼の人生は生涯旅人だった。天才その実力は認めれられも生涯安定した収入はなく、遊び好き、ギャンブル好きの彼は高給を得てもすぐ使い果たしてしまう。私の予想では彼の性格はエモ-ショナルでロマンチック。落ち着きがなく飽きやすい性格ではなかったかと思う。そして正直すぎる面、人に誤解され利用されやすい人物だったというのが私の印象。

 

ウィーンの中心部は観光客だらけ  写真:Elli

彼の音楽はやさしくて激しい。そして音楽のピース一つ一つに彼のライフそのものが伺える。時には甘い、そして時に侠気のイベントが反映している。漣のような美しいイントロやロマンチックで滑らかな楽曲と激しくエキゾチックなエモーションとが組み合わさったような曲が魅力的。

 

私は彼の死後200年以上が経った今、彼のキャラクターを利用してお金儲けしている人たちにどうしても共鳴できない。クラシック音楽は得にコピーライトの著作権が無い場合が多いので、最大限に利用されている彼の立場としては、墓場の中から文句も言いたくなるに違いない。チョコレート店の前で看板にされているモーツアルトはかわいそう。

彼の孤独さとその商品のギャップが大きくて、彼が惨めでしょうがない。でもそれだけ皆が親しんでくれていることをポジティブにとるべきなのか。。。

宣伝等はさておき、アマデウス.モーツアルトが残した私達へのギフト、それから彼の音楽がずっと世界中の人に愛されて、受け継がれているミラクルに乾杯!

参考文献:Wekipedia

 

 

ザッハトルテ発祥のウィーンのカフェ(ホテルザッハ)

ウィーンに来ると一番楽しいのはデザートとカフェめぐり。ウィーンのカフェは他の都市と比べてもレベルが高い。街を歩いていると美味しいカフェがいたるところにある。ここではカプチーノを注文すると「ウィンナーコーヒー」(コーヒーの上に生クリーム)が出てくる。 アイスコーヒーはコーヒーのアイスクリームシェ– クがでてくる。

 

ウィーンを代表するホテルのひとつにホテルザッハがある。このホテルは歴史的にも有名なのだが、それよりもここのオリジナルケーキ「ザッハトルテ」が世界的に有名で、同じ名前をつけたケーキが世界各国に散乱しているらしい。実はこのパテシエが同ホテルの名前にちなんで「ザッハトルテ」とつけたのがきっかけらしい。この美味しいケーキを食べるには列を作って待つ。この滑らかなケーキとコクのあるクリームがそえられたデザートを食べるために皆訪れる。ぱっと見回したところ、80%以上はこのケーキを食べている。その歴史から考えても未だに品質は落ちていないところはすばらしい。

 

写真:Elli

シェンブルン宮殿と美しい女性達~ 愛しのシシィへ

ヨーロッパの歴史の中でも一番好きなのが、18世紀のヨーロッパ史。その時代に起こったイベントの背景にある国王とそれを取り巻く美しい王妃達の悲劇はまるでドラマのシナリオのようにはかなくて切ない。宮殿の物語は主人公から脇役まで(決定的な意地悪役ももちろんいる)の要素がそろっていて、登場人物はダイアログも書きやすくするため、いろいろなエピソードやコメントを残してくれている。宮殿で繰り返される美女と悲劇の数々はたまらなくノスタルジック。

写真:Elli

その中でもちろん主役は美しい女性。当時15,16歳の少女が何も分からないまま政略結婚を強いられ、そこから成長する少女と宮殿の外での戦火や民衆の叫び、時代が大きく変わるときにあまりにもナイーブで世間知らずの皇后エリザベートは生涯女性として生きた、その時代には本当はふさわしくなかった人物かもしれない。それはマリー.アントワネットにも似たような境遇で、当時大衆がパンも食べれなかった時代に誰もがうらやむ豪華な宮殿暮らしをしていた彼女らにとってそれは逆に窮屈なものでしかなかった。「世間知らずのお嬢さん」とはよくゆうが、彼女らはまさにその「ナイーブなお嬢さん」だったのだろう。15歳でなにもわからない年に結婚をして、国を治めるという大きな負担を担うのだから到底そんなお嬢さん方にそんな長けた技ができるはずもない。

 

今でいうビジネスのつながり(昔だと国と国のつながり)は昔も今も「コネ」を使うしかなかったのかもしれない。彼女らはそんなビジネスの手先に使われた犠牲者ともいえる。

実際マリアテレジアが生んだ16人の子供のうちの幸せな結婚をしたのはたった一人で、マリー.アントワネットも含め、6人の女性達は皆若くしてダメ男にとついで行き、ギロチンの死刑になったマリーアントワネットも含め、その生涯を終えている。

写真Elli

私の一番好きなシェーンブルン宮殿のヒロインはシシィ(エリザベート皇后)彼女はヨーロッパで一番美しい女性といわれた「じゃじゃ馬娘」。自由奔放に暮らしていた彼女は何の運命か16歳でオーストリア皇帝、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と結婚する。元々彼女のお姉さんのお見合いだったのに、プリンスは挨拶もろくに出来なかったシシィに一目惚れをしてしまったらしい。どうやらこの皇帝は型破り的な活発な女性を好んだようだ。

写真:Elli

シシィはとても現代的な女性。ビューティーコンシャスでわがままで自分の容姿を何よりも優先的に考えていた。ウエスト50センチといわれたシシィはそのスタイルと美貌を保つため一日何時間もその手入れにかけていたし、夕食もほとんど食べなかった。その時代女性が運動するという習慣もなかったのに、彼女はエクササイズもかかさなかったし、宮殿の天井にバンドを釣って腕を鍛えたり、乗馬に熱中したり、狩りをしたりと日ごろから現代でいうとアスレチックな女性。その反面とても繊細な女性で、いつも自分が太ってることを(本当はガリガリ)気にしていた。

大敵は彼女甘いものが大好きで、時々過酷なダイエットに耐え切れずケーキや甘いものを食べていた。そのストレスは計り知れなかったかもしれない。それでもウエスト50センチのプロポーションを守るため、努力を続けた。57歳になったシシィの肖像がや写真はその証明で見事というまでに美貌が保たれている。61歳で暗殺されるまで彼女はその美貌を永遠のものにしたのだからすごい。

 

彼女の性格は気性が激しく、人付き合いが苦手で、それでいてすごくセンシティブで傷つきやすいのに、意地っ張りで自尊心が強いのに自己嫌悪がいつもあって

心はいつも落ち着いてなかった。ハンガリーの穏健独立派のハンガリー貴族アンドラーシ伯爵に恋したり、エモーショナルな女性を演じる。彼女の永遠の敵、姑のゾフィーから逃れる為、いつも口実を使って宮殿を脱出していた。そんな彼女の正直で人間らしく激しい女性としての生き方がとても共鳴できるのです。

シシィは結婚して次の年から(17歳?)子供を5人出産したが、初めの3人の子供は育てるどころか触らせてももらえなかった。姑に取り上げられ、宮殿によって育てられたので、彼女がはじめて自分の手によって育てたのは二人だけである。

でも最愛の息子ルドルフ皇太子が死んでからは彼女の生涯の悲しみを表すかのように、61歳でこの世を去るまで、喪服を脱ぐことは無かったという。

 

参考文献:Wekipedia