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Tohoku, Japan Relief 2012 世界に届け!東北復興の願い

見渡す限り何もない、東北、被災地。「そこに町があった、人々がここで暮らしていた」と案内されたが、とてもそんな光景を想像するにはいたらない。

――世界に届け、復興の願い――

東北食生産者を訪ねて

 

見渡す限り何もない、東北、被災地。「そこに町があった、人々がここで暮らしていた」と案内されたが、とてもそんな光景を想像するにはいたらない。あの大震災から1年半。どこまでも続く土むき出しの平地のあちこちに瓦礫の山が聳え立ち、骨組みだけが残ったビルや壊れた堤防、剥れた鉄道のレールが無残に置き去りにされている。その荒れた土地を囲む、小高い位置にある森林の前列は茶色に変色し、「ここまで津波が来た」という記を残していた。
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復興――その言葉にはほど遠いほど、途方も無く広く感じる。見渡す限り工事関係者以外人影も殆どない。海岸は美しい海が戻っているのに、震災以来の地盤沈下、液状化で、灯台さえ低く見える。時計が止まっている静かな校舎、その壊れた外壁の脇に流されなかった桜並木を見つけた。 塩水にも耐え、緑の葉を付け誇らしく立っていた。ここで再び新しい命が芽吹いている。この町は再び蘇るのだろうか?日本人の“不屈の精神”はまだ生きているだろうか?そして私達に何ができるだろうか? この町にもう一度花を咲かせたい。 故郷の町を甦らさなければ―――復興―それは世界の願い。今、私達に託されているのは、あの日を忘れない、復興支援を続ける事。一人一人が小さな一歩を踏み出せば、必ず大きな力になる。 東北の復興は日本の、世界の未来なのだから。

 

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アメリカで会った東北の食生産達

私が東北を訪れるきっかけになったのは、サンフランシスコの一大食イベント、「Fancy Food Show」での東北の食品生産者達の出会いからである。アメリカに住んでいる私にとって、東日本大震災の伝わり方は悲劇でしかない。東北の方に対しては慰めの言葉さえみつからなかった私に対し、彼らは明るく元気に接してくれた。彼らははるばる被災県から現地の復興を願い、地産食品をアメリカに披露しに来たのだ。その食品は、アメリカのスーパではお目にかかれない繊細で美味しいものばかりだった。 “モノ作り日本“。食品の水位は世界トップだ。そしてその加工技術と味は、訪れたアメリカ人を絶賛させた。 私の頭にふと疑問が広がった。「東北の食はいったいどうなっているのだろう?生産者達はどのように悲劇からサバイブしたのだろう」?「そうだ、現地の生産者達に会いに行こう」。そう思い立つと私は、未踏の東北に飛んだ。

 


三陸漁業の現状

海外に住む日本食ファンなら誰でも恩恵を受けているのが、三陸の魚と水産加工品である。

青森県八戸から福島県に及ぶ約350キロの三陸海岸沖合は、黒潮と親潮がぶつかり合う良漁場で、世界三大漁場の1つ「三陸沖」として知られる。震災前、沿岸漁業や養殖漁業で、ワカメは全国収穫量の約7割を占めていたし、ウニ、牡蠣、ホタテ、ホヤなどの生産は全国でもトップだった。特にウ二と牡蠣は世界で最高値をつける。また、沖ではサンマやカツオ捕獲が盛んで、中でも宮城県、気仙沼港は、水揚げ金額で東北1位だった。しかし去年の津波で、三陸海岸の約317の漁港殆どが壊滅的な被害を受け、831の水産加工施設が被災した。 現在、冷凍施設や加工施設の漁業関連施設の復旧の遅れで、国内外の流通も滞っている。岩手・宮城・福島の3県から出荷された水産物は大幅に減少により、魚消費国世界一の国内では、足りない供給分をアジアからの輸入で賄っている。そのため鮮魚を地消する事になるが、人口が減少している被災地ではそれも難しい。農林水産省は、5月末に漁業施設を早い普及が必要と水産白書で呼びかけた。復興計画では、集中型の沿岸漁業施設を復旧させる案もある。ここにビジネスチャンスを見いだせないだろうか?民間企業が参入して施設を立てなおし、海外流通に貢献できる機会もある。

 

 

三陸海岸―復興の兆し

岩手県、陸前高田から宮城県、気仙沼までの海岸線を走ると、悪魔のような黒い水を運んだ海も透き通る穏やかな漣を打ち、その光輝く海面には沢山の養殖棚がぷかぷかと浮かんでいた。ホタテと牡蠣の養殖棚が大勢のボランティアの人達の手によって、三陸の海に再び仕掛けられ、新しい命が芽生え始めていた。流されずに残ったわずかな牡蠣は、今年は震災前よりも水が澄み、大きな実をつけている。 三陸の魚達はここに戻り、各港では去年7月から水揚げが始まっている。海の男達が戻ってきた。仕事を再開する漁師達の顔はイキイキしている。漁船は国内外から寄贈されたものが多いが、まだ数は全く足りてない。船が無くて沖に戻れない漁師達もいれば、この土地を離れる人、資金援助を得る為の膨大な書類提出や規制が厳しく、仕事をあきらめる人も少なくない。気仙沼港にはまだ生生しい倒壊した冷凍施設の横に仮設の「お魚市場」がオープンしている。商売を再開する新鮮な声が、復興の兆しを告げる。そして人が、魚を買いに、食べに、戻ってきた。 今小さなブームを呼んでいる「ボランティア観光」もその貢献の一つで、国内から復興を見にくる沢山の観光客を運んでくる。被災地はもう再建の一歩を踏みだしていた。

 

 

*東北復興ボランティアボランティア= 主に首都圏から週末などを利用して、ボランティア活動、被災地見学ツアーの特別旅行。

1.牡蠣の養殖復興ボランティア

http://mizuyama-oyster-farm.com/owners&supporters.html

2.南三陸ボランティアツアー

http://united-earth.jp/minamisanriku/volunteer/

 

*      取材協力:宮城県庁 観光

JETROSan Francisco, JETROLos Angeles. JETRO 仙台、JETRO 福島、

*      参考文献:農林水産省 東日本大震災白書、産経新聞

Yahoo Japan News, ウィキペディア

東北食を世界に①

 

シンコー株式会社―宮城県、石巻市(魚加工業者)

宮城県、石巻市は人口16万人の内、3,735人が犠牲(行方不明者含)となった。津波に続き、タンクからの火災も2次災害となり、この町の被害は最も大きかった。その被災地のほぼ中心にあった、シンコー株式会社は、主にタラやカレイ、金目鯛の切り身魚加工品を営んでいる。社長の丹野氏は、営業を自粛するどころか、「こんな時だからこそ、事業を拡張するべき。石巻から世界に私達の最高の食材を味わってほしい」と石巻でモノ作りに拘ってきた同氏ならではの力強い言葉を聞いた。同氏の経営スタイルと活動は、他の地元の水産加工業者も勇気付けている。震災時、同社の一階部分はほぼ全壊、しかも会社の敷地がLの字になっていた為、沢山の瓦礫を収容してしまった。家を失った従業員はしばらく会社で避難生活を送った。 「会社に戻っても(震災時は出張中)3日間は放心状態だった、何も出来なかった」しかし丹野氏は怯まなかった。徐徐に破壊されたどろどろの工場を修復し、6ヶ月後には、工場の設備を復活させた。今、丹野氏が挑戦しているのは、同社の海外向け主力商品である地場産の「めかぶ美人」、めかぶエキスを抽出して加工した商品を海外輸出することだ。アメリカでのフードショーでは、同社のブースに、ヘルスコンシャスなアメリカ人が大勢集まり、栄養価が高くローカロリーなこの商品を絶賛した。まだアメリカでは取引までは至っていないが、いつかスーパーマーケットに並ぶのが期待できそうだ。丹野氏には、新世代のアイディアがある。「こんな事(災害)があった以上、これまでと同じ経営方針では通用しない。情報時代に相応しい、新しい経営方針の指導を行政にも応援してもらい、若い人達が立ち上がり、復興に貢献できるような環境つくりをしなければならない」と話す。同社は今年、内陸地に第2工場を構え、これから本格的な復興再建を目指す。

 

取材協力:(株)シンコー

宮城県石巻市渡波字下榎壇84-3  0225-24-3245

 

海外からできる復興支援

アメリカでは、被災地の報道は1年を過ぎて全くといってよいほど流れなくなった。アメリカ人にとってあの大震災はもう過去の事になりつつある。しかし、被災地にとって復興はこれからが本番。あと何十年もかかるであろう東北の復興には、今こそ世界からの支援が必要とされる。募金だけではなく、企業単位、個人単位で、毎日の生活に取り込む支援が提案されている。例えば、東北地方の企業と提携や取引をしたり、東北に支社や支店を出すといった東北での企業参入を、日本行政が優遇措置を設けるなどして、日本国内外に積極的に呼び掛けている。個人ができる事も沢山ある。東北の惨事を忘れない、復興に関わる、文化を知る、伝える、観光する、食べる、飲む、買う、そんな日常でできる事も大きな支援に繋がる事を知って欲しい。

 

 

編集後記

私にとって東北訪問は、日本人としての誇りを改めて実感させられる貴重なものとなった。東北は海と山の幸に恵まれている。東北の漁業と養殖、農業、加工食品、そして美しい水を利用した酒と米は世界の財産である。職人達の魂が込められた生産物を世界へ!わずかな取材期間で、被災者でありながら復興を目指す東北の人達の、その不屈な精神に屈服せずにはいられなかった。